世代の差、体験の差について

 佐久間象川さんから伝統文化と常識の変遷(1) というトラックバックをいただいた。
 私のエントリー今日は沖縄の「慰霊の日」の最後に
戦後60年、このような歴史描写が見られるのはやはり、戦争は遠くなってしまったと言う事なのだろうか?
 なんて偉そうに書いてしまったので、それに反応されたのかもしれない。私が戦争を知らない世代である事はご存知のはずなのだが。

 佐久間象川さんのエントリーにはこうある。
「目の前で、親族・友人が死んで行く激しい場面に直面した経験者と、印刷物で知識として知っているだけの人とでは、決定的な断絶があることを、痛感させられる。」
「時間が経ち、世間の常識が変化した後では『当然』のことが、或る時点では『非常識』に見える、ということは普通にあることである。」
 この認識には大賛成である。戦後時代の変化が激しくなった時、5年違えば世代が違い話が通じないと言われた。私のような戦後生まれでもどこか混乱、荒廃の匂いを嗅ぎ、その後の世代とはどこか合わない気もしている。 
 
 しかし、それを拡大して
体験しない事は、本当には分らない、というのが、人類の限界なのだろう。
そして、「共感」とは、思想信条とか、意見の一致とかよりも深い、人間の根底で発生する。
 とまで言うのがいいのだろうかと思ってしまう。

 同じ体験もしくは類似の体験をしてきた人にはその根底に共通点があるのだろう。しかし、「体験しない事は、本当には分らない」で立ち止まっていいものだとは思わない。

 そしてこの事は世代論とは矛盾する事でもあるのである。同一世代でもその体験は個人ごとに違う。同じ時代を生きてきてもまったく違う認識を持つ事だろう。例えば「お金を儲けて悪いですか」と嘯く人間と、同じ時代に生きている私とはまったく違う。

 あの時代に生きて、日本国内にいて、銃弾も聞かず、戦争の死者を目の前で見なかった人は山ほどいる。中国にいて中国人を差別していた実態を見、死者を多く見、引き上げに苦労した人と同じ認識が持てるのだろうか。
 多くの日本人が「百人斬り」のような記事を読んでいても、実際にそれを行っていたもしくは目撃していた人と同じ認識が持てるのだろうか。
 空襲や原爆にあっていても人と人が殺しあう戦争を経験していない内地の人が沖縄の体験者と同じ認識が持てるだろうか。

 同一世代の経験、その時代の雰囲気は大事だし、貴重なものだと言う事は確かだ。しかし、それを過大に評価してはならないと思う。

 
 このような事も書いておられる。

「体験者(沖縄現地人)と、知識だけの人(文科省官僚)の差」、を改めて考えさせられた。

 沖縄の体験者は概ね70歳以上だろう。その人口は沖縄人口の大部分ではない。それより若い世代が戦争経験を継承しているのだ。だからこそ全会一致の決議が出る。

 本土の人間が沖縄戦争の実相をどれだけ知っているか。殆ど知らない。しかし、教科書書き換えに反対する本土の人間も多い。同じく知識だけの人だが文科省官僚とは違う。その差はどこにあるのか。


 時代の雰囲気、同世代の体験は重要だが、印刷物による疑似体験もそこそこの理解を得る事が出来ると思う。
 もし、それが出来なければ歴史に学ぶ事は出来なくなる。
 そして、その上にその時代を生きた人の体験や感覚を聞くことが出来れば、さらに深く歴史を学べるであろう。歴史を生きた人はそれを後代に伝える義務があるのだと私は思う。

 私が先達のブログに期待するゆえんである。世代の違いにより感覚があわなくても、突き放さずお願いしたいと言う気持ちです。

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